ちょっと硬い話になって恐縮ですが、ときの領主「板倉公」を語らずしては話が前に進みませんのでご理解の程を…
「板倉家」と東金の関係は、福島藩祖の「板倉重昌公」が慶長19年(1614年)に「徳川家康公」と共に東金に来訪したことに始まります。
江戸幕府の中枢で活躍されていた「板倉家」が、寛文11年(1671年)幕府より拝領した土地が、今の上宿・谷・岩崎・新宿・田間そして豊成の二又地区です。火正神社の本殿は元禄11年(1698年)1月28日、板倉重寛公により創建されました。その後奉納された「大みこし」が、享保18年(1733年)に初めて渡御されました。ですから火正神社の「大みこし」は、社(やしろ)が上宿に在るにもかかわらず「板倉公」の領地の田間まで渡御し、二又地区に向かって挨拶するのです。
神輿の屋根についている左巴紋(ひだりともえもん)が「板倉家」の家紋なのです。そう教えられてしみじみと見てみると、なるほど今風に言えば3D(立体的)で立派な御紋です。それともう一箇所、「板倉重昌・重矩両公常行記」という古文書の文中に(大提灯燈巴、家中の桃灯面々の紋黒にて巴三寸程に自分の紋の上に付け…)というくだりがあります。それと全く同じサイズの左巴が神社水屋の屋根の北側に残されていますので、ぜひご覧下さい。祭りごとなので、ついついお祭りの印の巴と見過ごしますが、思わぬところに残されています。
まずは右側、「鶏栖」は、ケイセイと読むそうです。意味はと言うと「鳳凰」(ほうおう)のことだそうです。鳳凰とは、おみこしの屋根の上につけられるものですので、「御神体」を入れるおみこしを二社寄進されたと解釈されます。
左側は、享保十七年当時の上宿には、領主板倉公が東金にお成りの際、必ず「お目見えの儀」の場所として利用された中田家(上宿の八鶴湖入口は中田家の玄関口)や桐材を取り扱った豪商・唐金茂右衛門、「石橋下の鶴御成り〜」と謡われた石橋家、等など名門・名家の方々が多く住んでいて結束を強めていたことが伺えます。
テレビでおなじみの「大岡越前」の名裁きは、どうやら「板倉公」がモデルのようです。もちろん「大岡越前」は実在したのですが、「板倉公」の人情味溢れる所業をそのまま主人公「大岡越前」にダブらせて作られたものと言われています。また、最近古文書で判ったことですが、京都の鴨川の形を現在のように造ったのも「板倉重矩」であるという事です。
福島県福島市は当時(元禄16年)300戸程の小村でしたが藩主重寛公の力によりその礎が作られ今日の繁栄ぶりとなりました。「板倉神社」も創建されており、県民に大変大事に護持されているそうです。
最福寺には「家康公と日善上人」のブロンズ像がありますが、本来ですとその傍らには若き「板倉重昌公」がかしずいておられたと思います。それほど徳川家の重鎮として活躍されていたと言うことです。家康公の御顔は、日光輪王寺に祭られている、徳川三代家光公が狩野探幽に書かせた「徳川家康霊夢像」を、輪王寺の御了解を得て写されたもので、制作者は千葉大学教授で日展の会員でもある上野弘道氏(東金出身)です。
「板倉公」の存在を理解できていた人の中には、例大祭の前日の夢の中に、白馬にまたがった「板倉公」を見た方がいると言う話を聞いたことがあります。
私達もそういう夢を見たいなと思いましたが、お神酒の過ぎる人は見られないそうです…。
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